ゆうやけ市開催地、松山通り商店街の商店で扱っているもので検索できます。(例:酒・花等)
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「阿佐ヶ谷」の地名の由来

「阿佐ヶ谷」は、桃園川の浅い谷地だった為、最初は「浅い谷」と呼ばれていたのが「浅か谷」(仮名で「あさかや」)に変わりました。 行政上、奈良時代は武蔵国多下(郡)、平安時代は多摩郡海田郷に、宝徳三年(1451)には武蔵国中野郷に属しました。 また阿佐ヶ谷は、応永二七年(1420)には武将「あさかや殿」が支配し、小田原北条家人「大田新六郎」の知行地へと。 更には江戸時代寛永十二年(1635)より山王権現社領(230年間も)と長く私領で、検地石高より豊かでした。 明治二二年(1889)まで、阿佐ヶ谷村と呼ばれていました。 現在、「阿佐ヶ谷」と「阿佐谷」の両方が使われていますが、古来この地は「阿佐ヶ谷」でしたが、 昭和三八年九月より住居法により「阿佐谷」に統一されました。 住所や公文書には「阿佐谷」が用いられていますが、固有名詞や駅名は伝統的な「阿佐ヶ谷」が用いられています。

阿佐ヶ谷文士村

1923年の関東大震災を機に、東京の下町からたくさんの人が移動してきました。 そんな中には、文士の人々もいました。家賃が安かった事が唯一の理由の様です。 阿佐谷界隈には、与謝野鉄寛・晶子夫妻、田宮虎彦、太宰治、火野葦平、井伏鱒二等が住んでいました。 今では歴史に残る文士達ですが、その頃は貧乏で、まだ世間にも認められてはいなかったようです。

ビオトープ

ビオトープ(Biotop)とはもともとギリシャ語で『bio=生き物 + top=住むところ』という意味のドイツの造語です。 広い意味で捉えれば森林や海洋などもビオトープと言えますが、 一般的には「人間が生活・活動するところで」という但し書きがつきます。 すなわち、地域の野生の生きもの達が自立して生息・生育する空間を意味しますから、狭義に言えば
・建物の屋上に作られた緑地 
・自然回復工事が行われた河川
・ブッシュや立ち木が残された畑
・高速道路の上に作られた自然公園
などが挙げられます。 
この商店街では、各商店が独自に工夫を凝らして火鉢、防火用水、水がめ等にスイレンやパピルス等の水生植物を植えて、 メダカやヤゴ(トンボの幼虫)らを住まわせています。

「松山通り」の由来

目白通りのそばにある「子の権現」という寺への参詣道として使われた道で、 子の権現道(ねのごんげんどう)と呼ばれていました。近世江戸時代には盛んに利用された道で、 おそらくそのかなりの区間は中世の頃鎌倉へ通じていた道である可能性があります。 阿佐ヶ谷は中世の文書に「あさがや殿」とあるように、ここには有力な勢力がいたといわれ、 少なくとも中世の後期足利時代にはかなりの拠点であったことがわかっています。 従ってここを通過する道が地方的には重要な交通路であったようです。(「米良文書」、応永二七年(1420)) 現在、「子の権現」は円光院にある「子ノ聖観世音」と一緒に祭られていますが、 ご神体も別で、以前は場所も別であったそうです。子の日の子の刻に市が開かれ、縁日には参詣者で賑わったそうです。 「松山通り」という名前は、松林があったことに由来しますが、何時からかは不明です。 尚地域の方言で「山」は森や林の意味です。北3丁目が明治二二年「松山」に子字名が改定されたことからも伺えます。 阿佐ヶ谷駅から南は、大宮八幡宮へと通じ、更には鎌倉へ通じる鎌倉街道の一つでもあったといわれています。
「街道を尋ねて」より一部引用

「松山通り交友会」の歴史

大正十二年の関東大震災後、下町から移住の人々で街並が整い始め、大正十四年四月一日「松山通り交友会」が、 法仙庵の北側から日大通り近くの電信隊原っぱまでの四十店舗ほどで発足。お店も移転して来た方達が大勢。 小松屋豆腐店の南側に在った「河合書店」が初代会長に。今の高村建材工業も「高村石材」と呼ばれ、 運搬に牛車が使われていたそうです。昭和六年には現在の大神輿を交友会で製作。 昭和二八年には、商店数も多くなり、北側の商店街を「親交会」ヘと2分割。 昭和二一年十二月一日から木炭バスが中村橋まで「松山通り」を通って、運行開始。 二十年前の中杉通り開通により、バス通行は終了。平成十二年六月第一回ゆうやけ市開催、十五年末までに通算十七回開催しています。

阿佐ヶ谷囃子の由来由緒

【江戸の祭囃子】
江戸の祭囃子の元は、祇園囃子が伝え伝えられての伝習と、 江戸での神楽・大神楽の囃子を取り入れての関東独特の展開といわれています。 最も華やかになったのは、江戸開府後で、最も盛大な祭りは、江戸城鎮守「山王権現」。 続いて江戸の総鎮守「神田明神」。山車や屋台が引き出されました。
【江戸の代表的な祭囃子】
葛西囃子が、江戸川の葛西囃子と神田の神田囃子に分かれていきました。この他に代表的な祭囃子は、
①美濃がえくずし(亀有方面)
②きりばやし(青戸・金町・江戸川)
③深川ばやし(深川方面の旗本の二男三男が始めた)
④本所ばやし(本所割り下水に住む御家人連中に伝えられた)
⑤住吉ばやし(うらばやしとも云われ、浅草猿若町の三芝居の連中が葛西に学んで拍子を変えた)
【阿佐ヶ谷囃子】
幕末の頃、葛西囃子か現世田谷の船橋囃子から伝来。 「構成」は、大太鼓・小太鼓・笛・鉦の五人構成。時に拍子木を付けることも。 「囃子の順」は、打ち込み、屋台、鎌倉、四丁目、屋台、中間流。「服装」は祭半纏。 (または浴衣)九月十五・十六の神明宮の祭に神楽殿や駅前の櫓上で奏されます。 明治・大正時代に、阿佐ヶ谷囃子は井草、馬橋、天沼、鷺宮、貫井、荻窪、遠くは所沢、青梅の諸村へ広められました。 井草からは、石神井関町、谷原へも伝承しました。